LOGINその日の夕食後。館の空気が夜の静寂へと沈み始めた頃、瑠理子は意を決して二階の奥にある父の書斎の扉をノックした。
「入りなさい」
低く重みのある声に応じ、瑠理子は静かにドアを開けて中へ足を踏み入れた。 重厚なマホガニーの机に向かい、眼鏡越しに決算書へ目を通していた父が、瑠理子の姿を認めるとわずかに眉尻を下げてペンを置いた。
「瑠理子。……昼の非礼についてなら、私から淳君にそれとなくフォローを入れておいた。彼も気にしていないと言っていたから、お前もそう頑なになるな」
「私の意思は変わりませんわ」 「瑠理子……」「あと、御堂直之さんの所に連絡はしていただけました?」
「お前、あんなに嫌がっていたのに……。『顔も知らない十歳以上も離れた人と政略結婚なんて絶対にお断りだ』と、手紙すら突き返したはずだが、どういう風の吹きまわしだ?」
――当時の十八歳の瑠理子にとっては。 知らない男に人生を売り渡すような結婚なんて考えられなかった。 いつか巡り会う運命の相手と恋をして、世界で一番幸せな花嫁になって、温かい家庭を築いてずっと一緒に生きていく――彼女はそう信じていたから。しかし、その甘い夢を信じていた相手に、すべてを踏みにじられ、殺された。
「気が変わりました」
毅然と言う瑠理子へなにか言いたそうな一郎のもとに、電話が入った。「……何?」
受話器を持った父が、珍しく声を上げた。瑠理子は、冷静な彼が取り乱すような声を上げているので気になった。
「承知しました。何卒、よろしくお願いいたします」 受話器を置いた彼が、深いため息をついた。「どうしたの、お父様」
一郎は信じられないものを見るように娘を見た。「電話、御堂家からだった」
「どのようなご回答をいただいたのですか?」
まさか断られたのか――「先方も縁談を進めたいそうだ」
「それは良いお話ですわ」
「いや、それだけじゃない」
父の表情が険しくなる。
「直之氏本人が、そう言っているらしい」
瑠理子の視線が揺れた。「ご本人が?」
「ああ」
父自身も理解できないようだった。
「あの御堂直之氏が、だ」女性との縁談をすべて断ってきた男。結婚する気がないとまで噂されていた男。
その男が、顔も合わせたことのない自分との縁談を、わずか数時間で受けた?
瑠理子にとってはありがたい話だが、こうもうまく未来が切り替わるものなのだろうか。
その時、書斎の外で冷たく乾いた金属音が書斎の入り口から微かに響いた。
「どなた?」扉を開いて 瑠理子が視線を走らせると、トレイを手にした人影が佇んでいた。
父へ茶を届けに来たのだろう。床の上にトレイから滑り落ちた銀のティースプーンが転がっていた。彼は足元に落ちたスプーンを拾おうともせず、微動だにしないまま、ただじっと瑠理子を見つめていた。 彫刻のように整った顔立ちには、何の表情も浮かんでいない。ひどく平坦で、底の知れない静寂を纏っている。 けれど――なぜだろうか。瑠理子の肌には、痛いほどの熱圧が伝わってきた。
(怒っている……?)
理由が分からなかった。 今日初めて出会ったばかりの、ただ居候として転がり込んできた少年が、主家の令嬢が誰と縁談を結ぼうが関係ないはず。
それなのに、彼の双眸の奥には、黒く渦巻く激情の炎が揺らめいていた。「……ご婚約、なさるのですか」
沈黙を破ったのは、低く押し殺された淳の声だった。どこか掠れたその響きは、問いかけというよりも、逃れようのない現実を問い詰める刃のようだった。
「そうよ」
瑠理子は一切の動揺を隠し、冷然とした瞳で淳の視線を正面から射抜いた。
「私は、御堂直之さんと結婚します」
その瞬間――淳の視界を、強烈な閃光のように【漆黒の海】の光景が横切った。
吹き荒れる夜の潮風。激しい雨の匂い。 誰かの細い手。血の気のない白い指先。 狂ったように伸ばした自分の指先から、すべるようにして闇の中へと零れ落ちていく。
闇の中へと零れ落ちていく、細い身体。
どうしても手放したくない誰かの感触。 「っ……!」胸の奥底が引き裂かれるような、名状しがたい恐怖と焦燥が津波となって押し寄せる。
絶対に奪われてはならないものを、目の前で強奪される――。(誰に、何を奪われるというのだ……?)
海原瑠理子のことなど、本来なら気にする必要はない。
淳が知りたいのは、両親の死と海原家の間に何があったのか。ただそれだけのはずだった。それがなぜ、瑠理子が婚約すると聞いただけで、胸が焼けるように痛くなる?
淳はトレイを持つ両手の指を白くなるほど締め上げ、無意識のうちに拳を握りしめていた。 そして、生まれて初めて、心の底から昏(くら)い感情が湧き上がるのを自覚した。
御堂直之。 素性も、顔も、声さえも知らない男。 それなのに―― 会ったことすらないその男が、なぜか殺してやりたいほどに邪魔だと思った。「淳って呼んでるんだ」「名前で呼ぶなんて、随分親しそうね」「同じ家に住んでるの?」 卑下した嘲笑交じりの野次が飛ぶ。「一緒に暮らすと言っても、それは私の屋敷の話よ! 父も母も使用人も大勢いるわ!」 なんとか反論するが、令嬢たちは瑠理子を嘲笑う。「でも同じ屋根の下でしょう?」「十八歳の娘がいる屋敷に、若い男を住まわせるなんておかしくない?」「それで御堂さんと結婚を望むなんて、ひどい女ね」「違うわ! 淳はそんな人じゃない!!」 どう言えばわかってくれるのだろう。こちらの言うことはまるで届かない。「じゃあ、その淳って人は何なの?」 瑠理子は言葉に詰まった。 彼が何なのか、自分でも分からない。 前世の夫で、今世では忘れようとしている男。手を取らず、離れようとしている男。 それなのに、まだ心から消えてくれない人――「答えられないんだ」「やっぱり」「男を二人同時に?」「欲張りね」「違うってば!」 声が震える。「淳とは何もない!」 瑠理子の悲痛な叫びを聞いて、百合絵が悲しそうに俯いた。「皆さん、やめてあげて」「百合絵?」「瑠理子ちゃんにも事情があるのよ」「あなた、優しすぎるわ」「直之さんを取られたのよ?」「それでも庇うなんて!」 勝手に好き
「証拠って……」「メッセージとか」「お見合いでその場で言われたので、証拠はありません」 沈黙が訪れる。「その場で言われた?」 くすっ、と誰かが笑った。「随分都合がいいのね」 「本当に直之さんだったの?」 「誰かにからかわれたんじゃない?」 次々に飛び出す瑠理子への攻撃。 「違うわ!」 必死になって言うが、誰も相手にしてくれない。 「瑠理子ちゃん」 百合絵が優しい声で遮った。「もういいから」「何がいいのよ!」「直之さんに会いたかったんでしょう?」「……は?」「会いたいなら、そう言ってくれたらよかったのに」「違う!」「こんなものまで作らなくても……」「私が作ったんじゃないわ! 違うっ、違うの!!」 思わず叫んだ。すると、周囲の女性たちが一歩引く。 「やだ怖い……」 「百合絵さんに逆ギレ?」 「招待状を偽造しておいて?」 ひそひそひそひそ。 「違うって言ってるでしょう!」 言えば言うほど、周囲の目が冷たくなっていく。
一週間後。御堂財団主催の慈善パーティー当日。 会場となる都内の高級ホテルには、政財界の関係者や著名人、その家族たちが次々と集まっていた。 この様子は生放送でライブ配信されるらしい。 吹き抜けのロビーには巨大なシャンデリア、磨き上げられた大理石の床。 豪華なドレスや高級な宝石を身につけた女性たちが、シャンパングラスを片手に談笑している。 瑠理子は会場の入口で、一度だけ深く息を吸って気持ちを落ち着けた。 今日はただの社交ではない。 これから直之との縁談を進めていくのなら、避けて通れない場所だ。 今度こそ、自分は海原家を守ると決めた。 前世のように、何も知らないまま父や会社の後ろに隠れているつもりはない。 瑠理子は背筋を伸ばし、受付へ向かった。「お名前をどうぞ」「海原瑠理子です」「海原様ですね。少々お待ちくださいませ」 受付の女性が名簿に目を落とし、ページをめくる。 やがて、その手が止まった。「……」「どうかなさいました?」「大変申し訳ございません」 受付係が困惑した表情で顔を上げる。「海原瑠理子様のお名前が、こちらの招待者名簿にございません」「え?」 瑠理子は耳を疑った。「そんなはずありません」「ですが……」「招待状もいただいています」 バッグから封筒を取り出す。「海原百合絵さんから送っていただいたものです」「拝見してもよろしいでしょうか?」「もちろんです」 受
夕方。瑠理子は届いた招待状を手に、廊下を歩いていた。父にも出席する旨を伝えておかなければならない。 御堂財団の慈善パーティーともなれば、海原家としても無関係ではない。直之との縁談を進める以上、これからはこういう席へ出る機会も増えるのだろう。「……頑張らなくちゃ」 小さく呟いた、その時――「何をですか?」「きゃっ!」 突然後ろから声をかけられ、瑠理子は肩を跳ねさせた。振り向くと、淳が立っている。「もう、驚かさないで」「すみません」「いつからいたの?」「今来たところです」 そう言いながら、淳の視線が瑠理子の手元へ落ちる。「それ、何ですか?」 瑠理子は招待状を持ち上げた。「御堂財団の慈善パーティー」 その名前を聞いた瞬間、淳の表情が僅かに曇った。「行くんですか?」「ええ」 淳は招待状をじっと見た。「それは誰からもらったものですか?」 男が贈る封筒にしては、かわいらしいものだったので気になった。「百合絵お姉様よ」「……は? 昨日のあの女性ですか?」「それ以外に誰がいるのよ」「いや……」 淳は信じられないような顔をする。「あの人、昨日何て言って帰ったか覚えてます?」「もちろん」「絶対別れさせるって言ってましたよね。なのに、次の日にパーティーへ招待?」「ちゃんと謝罪のお手紙も入ってたわ」「…&hellip
翌日の午後。瑠理子は自室で机の上に置かれた封筒を見つめていた。 淡いクリーム色の上質な封筒。差出人の名前は――海原百合絵。「……何かしら」 昨日の今日だ。『絶対、別れさせてやるから!』 あれだけ怒鳴って帰った百合絵から届いたものだと思うと、嫌な予感しかしない。 瑠理子は封を開けた。中に入っていたのは、一枚の招待状。『御堂財団 慈善パーティー』 開催日は一週間後で、都内のホテルで行われる、御堂家主催の催しらしい。 そして、もう一枚。百合絵からの短い手紙が添えられていた。『瑠理子ちゃんへ 昨日はごめんなさい。 私、少し取り乱してしまったみたい。 直之さんとのことも、ちゃんと受け入れなきゃいけないと思っています。 来週、御堂財団の慈善パーティーがあります。 直之さんとの縁談を進めるなら、きっと今後お付き合いする方々も多くいらっしゃると思うから、よければ参加しない? 私から御堂家にも話しておくわ。 百合絵』「……」 瑠理子は手紙を読み終えても、しばらく動かなかった。 昨日までの百合絵を思えば、素直に信じろという方が無理だが、彼女がなにかしてくるとは思えない。 考えすぎだろう、と結論付けた。 もう一度手紙に目を落とす。 御堂財団のパーティーの文字。 直之との縁談を本当に進めるのなら、いずれ避けては通れない世界でもある。 御堂家の関係者や財界の人間。
「……別の男?」百合絵は涙の残る目で父を見上げた。「誰のこと?」 二郎はすぐには答えなかった。「今日、兄さんの家で誰かに会わなかったか?」「今日?」「瑠理子ちゃんと歳の近い男だ」 百合絵は一瞬考え、「もしかして……橘淳?」と答えた。 二郎が満足そうに微笑んだ。「そうだ」「でも、あの人はただ屋敷に住んでるだけでしょう?」「本当にそうかな」「え?」「百合絵。彼は瑠理子ちゃんと直之君の縁談の話を聞いて、どんな反応をしていた?」 二郎は娘の顔を覗き込む。「淳君は瑠理子ちゃんのことになると、随分過剰に反応するんだ。どうだ? 違うか?」「ええ。お父様の言う通りよ。しかも『瑠理子なんか』って言ったくらいで、いちいち怒るの」「それから?」「瑠理子のことが好きなんでしょうって聞いたら、否定したけど……」 百合絵は先ほどの淳の顔を思い出した。「なるほど」 二郎の口元が僅かに上がった。やはり淳は瑠理子に気がある。 最初からそんな感じがしていたが、直感は正しかったようだ。 これは、思っていた以上に使えそうだ。「でも、それが何なの?」「簡単な話だよ」 二郎はゆっくりソファへ腰を下ろした。「御堂君が瑠理子ちゃんを選んだのは、今日が初対面だったからだ」「……?」「まだ瑠理子ちゃんのことを、何も知らない」「そうね」「では」 二郎が穏やかな声で続ける。「自分と結婚しようとしている女が、同じ屋敷で暮らす若い男と特別な関係にあると知ったら?」 百合絵の目が大きくなった。「